リヴァイアサンと空気ポンプ 第1章 「実験を理解するということ」
第1章 「実験を理解するということ」
エピグラフ
p.35
アドソ:「どうしてまた」驚嘆しながら、私は言った。「外から眺めているだけで、文書庫の秘密まで、そのようにして解き明かすことができるのですか、あの中にいたときにはおわかりにならなかったのに?」
バスカヴィルのウィリアム:「これとおなじようにして、神さまはこの世界を知っておられるのだ。天地創造以前に、いわば外側から、ご自分の頭のなかを考え出してしまわれたので、それに引き換え、わたしたちには、この世界の構造の規則が、わからない。その内側で生活していて、すでに出来上がったものとしてしか、認識しないから」
ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』(東京創元社 河島英昭 訳) 上巻 p.350
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(私見: 文章上には存在しないが、段落番号を記す。これは読解におけるロールズの作法である)
1
p.35 上段
わたしたちの主題は実験である。わたしたちが理解したいのは、実験的な営みとその知的産物とはなにか、そしてそれがどういう地位を有するかである。そしてそれがどういう地位を有するか、である。答えようと思う問いは、以下の通りである。
実験とはなにか。実験はどのように行われるのか。実験はどのような仕方で事実を生みだすと言われ得るのか。そして、実験によって生みだされた事実と説明のために想定される事柄〔説明のための理論〕とのあいだにはどんな関係があるのか。どのようにして実験は成功したとされるのか。
この一連の問いの背景には、より一般的な問いが存在する。なぜ人は科学的真理に到達するために実験をするのか。
自然に関する知識に、合意によって到達するにあたって、実験は特権的な手段であるのか、あるいはなにか他の手段が可能なのか。科学において代わりとなりうる他の手法ではなく、実験的手法を勧めているものはなんなのか。
2
pp.35 下段 -
わたしたちは、自分たちの答えを歴史的な性格のものにしたいと望む。そのため、わたしたちは、自然に関する知識を生みだす体系的方法としての実験が登場し、実験という営みが制度化され、実験によって生みだされた事実が、適切な科学知識とみなされるものの基盤とされた歴史的状況を論じるであろう。
それゆえ、わたしたちは、実験的手続きの偉大なパラダイム、すなわちロバート・ボイルの空気学研究と、その営みのなかでの空気ポンプの使用から議論を始める。
3
p.36 上段
ボイルの空気ポンプの実験は科学の教科書や科学教育のなかで、そして科学史という学問領域のなかで、正典的な地位を占めている。あらゆる科学史の主題のなかで、この実験ほどなにか新奇なkとを付け加えるのが難しい主題はないと思われるかもしれない。
〈略〉
1660年にボイルが行った空気実験についての素晴らしい説明が、著名な『ハーバード実験科学事例史研究』シリーズの第1巻を飾っているのは、まったく理に適ったことだ。この〔『リヴァイアサンと空気ポンプ』原著初版が出版された1985年から見て〕35年前の研究は見事なまでにわたしたちの出発地点を提供してくれている。
ボイルの空気実験が、信頼に値する科学知識はいかに獲得されるべきなのか、について、人びとの手本となるようなモデルを提供するために設計された〔そして以来そのようなモデルを提供してきた〕ものだったことを、この研究は示しているのだ。
4
p.36 上段 -
興味深いことに、ハーバード事例史研究はそれ自体として正典的な地位を獲得してきた。科学史教育のなかで重要文献としての地位を獲得することによって、ハーバード事例史研究は以下の事柄について具体的な見本を提供してきた。
科学史という領域のなかでは、どのように研究を行えばいいのか。どのような種類の歴史的な問いが問われるべきなのか。どの種類の史料が調査に関係していて、どの種類のものはそうでないのか。歴史的な叙述や説明は一般的にどのような形式をそなえているべきなのか。
だが今こそハーバード事例史研究やその他の類似の研究に組み込まれた方法、前提、そして歴史研究プログラムから離れるべきときである。
わたしたちは、空気ポンプ実験にふたたび注目したい。その実験に関する歴史史料に新たな問いをつけ加え、また伝統的な問いを別のかたちで問うためである。
わたしたちがこの研究プロジェクトを開始したのは、ボイルの実験的な仕事についての既存の説明を批判するためではなかった。実のところ、当初、わたしたちは、過去の傑出したボイル研究者たちの仕事に自分たちが多くをつけ加えうるのか疑念をおっていた。それでも分析が進むにつれて、わたしたちが答えようとしてきた諸問題が、先行する著者たちによって、体系的に提起されてこなかったということを確信するようになった。なぜ提起されてこなかったのか。
5
pp.36 下段 -
答えは「内部の者の説明」と「よそ者の説明」の区別にあるのかもしれない。
文化を理解しようとするときに、その文化の内部の者であるkとは大きな強みである。実際、ある文化を、その文化にとっての全くのよそ者が理解する様を思い描くことは難しい。
しかし、ある文化の内部の者である、という自覚を欠くこともまた、その文化を理解するための調査に深刻な不利益をもたらす。とりわけ深刻なのは、「自明の方法」と呼ばれうるものだ。
実験的営みについて、わたしたちが問いたいと思う諸問題を、歴史家たちが体系的、かつ、綿密に問うてこなかった一つの理由は、歴史家たちが生みだしてきた説明の大半が、内部の者にとっての自明の方法を前提としていたからである。この方法のなかでは、わたしたち自身の文化のなかで、当たり前に実践されている営みを支える諸前提は、問題を含むものとも、説明を必要とするものとも、みなされない。
たいてい、わたしたちの文化のなかにある信念と営みは、自然についての自明な事実をもとに説明されたり、人びとは端的にどのように行動するものか〔ある人びとが「合理的に」ふるまうときにどのように行動するものか〕ということについての、普遍的で特定の個人に依存しない基準をもとに、説明されたりする。
ダチョウを鳥に分類する話
6
p.37 上段
実験的文化の場合、自明の方法は歴史家たちの説明のなかでとくに際立っている。なぜそうであるのかを理解するのは簡単だ。科学者たちが現在、生きて、活動しているところの実験的世界を、ボイルが創造したとみなすことに、歴史家たちが広く同意しているからである。
だから、歴史家たちは、自分たちが〔そして現代の科学者たちが〕ロバート・ボイルと一つの文化を共有しているという前提から出発し、その前提にしたがって、自らの主題を扱っているのである。〔現代の〕歴史家と17世紀の実験主義者はともに、同じ文化に属する仲間というわけだ。
以上の想定を、実験文化がその後にたどった歴史的経緯が裏付けてくれる。
〈略〉
とはいえ、自明の方法が歴史研究のなかで現れる仕方は、よりとらえにくいものであることが多い。それは実験の誕生、受容、および制度化に関する一連のはっきりとした言明として表明されるのではない。むしろ実験の本性と、わたしたちの知的活動全体のなかでの実験の地位について、特定の種類の疑問を投げかけることに、意味を見出さないような傾向として現れる。
7
pp.37 下段 -
内部の者の説明、およびそれと結びついた自明の方法は、本能へ訴えかけるところ大である。それらを守り、維持する社会的な力は強力である。共有された文化のなかで「誰もが知っていること」について厄介な問題を提起する者はのっぴきならないリスクを犯すことになる。
〈略〉
よそ者を演じることによって、わたしたちは自明性から離れてみたい。わたしたちが「わたしたちの」実験の文化へ接近するやり方は、アルフレッド・シュッツが示したやり方と同じである。すなわち、よそ者は異質な社会へと「避難所ではなく冒険の領野として、当たり前のことではなく疑問視しうる探索の課題として、諸々の問題状況を解きほぐすための道具ではなく、なかなか修得することの困難な問題状況そのものとして」接近するのである。
アルフレッド・シュッツ『社会理論の研究』
実験的文化に対するよそ者を装うことで、特定の文化の信念と営みを説明するにあたって、その文化の内部の者に対してよそ者がもつ大きな強みをわたしたちは獲得できる。よそ者は、それらの信念や営みに対する代案が存在することを知る立場に立っている。代案があることに気がついている者こそ、当の文化を説明するに適した位置にいるのだ。
8
pp.38 上段 -
〈略〉
わたしたちが用いることのできる方法の一つは、過去における論争のエピソードを見極め、精査することである。
自然現象と知的営みに関する論争の、歴史上の実例は、わたしたちの視点から見て、二つの強みを持っている。
一つは、論争のうちではしばしば、後にその存在が疑問の余地のないもの、あるいは、確立されたものと見なされるようになる存在者の実在性や、のちに、その価値が疑問の余地のないもの、あるいは確立されたものとされるようになる営みの、妥当性について意見の相違が見られるという点である。
〈略〉
〔論争を研究することでもたらされる〕もう一つの強みは、歴史上のアクターがしばしば、わたしたちが演じようとする、よそ者に似た役割を演じているということである。そのような人びとは、論争の過程で、論争相手が自らの信念と営みに与えている自明性を脱構築しようと試みる。そして、そのために相手の信念や営みが人工的で慣習的なものだと示そうとする。したがって、論争の参加者は、歴史家に、よそ者を演じるにあたって助けとなる道具立てを提供するのである。
〈略〉
わたしたちは、論争の両方の側によって用いられた建設的な戦略と解体的な戦略に注意を向けることが有効だと気づくに至った。わたしたちは論争の当事者の説明を用いるけれども、それらをわたしたち自身の解釈の作業と混同することはない。歴史家が自ら語るのだ。
9
pp.39 上段 -
わたしたちが関わる論争は、1660年代と1670年代初頭にイングランドで起こった。主役はロバート・ボイル(1627-1691)とトマス・ホッブズ(1588-1679)だ。 ボイルは体系的な実験の有力な実践者として、また自然哲学において実験という営みがもつ価値を唱えた最も重要な人物の一人として登場する。ホッブズはイングランドでのボイルの最も強力な論敵であり、ボイルの研究から生みだされる特定の主張や解釈を否定しようとした。さらに決定的なことに、ホッブズは実験プログラムが、どうしてボイルが推奨した種類の知識を生みだすことができないのかを示すための強力な議論を展開した。 ホッブズとボイルの論争が歴史家にとってとりわけ分析しづらいものであることにはいくつかの理由がある。ひとつの理由は、ホッブズという人物が研究文献のなかで「自然哲学者」とは見なされなくなってしまったことにある。
カーゴンは正しくも次のように言っている。
「ホッブズは、デカルト、ガッサンディと並んで、17世紀中盤の最も重要な3人の機械論哲学者の一人であった」
カーゴン『原子論 —— 17世紀』(平凡社『西洋思想大辞典』第2巻 p.76-84)
17世紀にホッブズの自然哲学上の見解が真剣に受けとめられていたことを示す証拠は十分にある。
〈略〉
18世紀の初頭にいたってもなおスコットランドの大学カリキュラムの重要な構成要素であった。けれども、18世紀末までには、ホッブズについて科学史の観点から書かれることはほとんどなくなっていた。
〈略〉
ホッブズは倫理的、政治的、心理学的、形而上学的哲学者として記憶されるべき人物となった。そしてこれらの関心と自然についての哲学の一体性は、ホッブズによって極めて強く主張されていたにも関わらず、破壊されてしまい、科学は考察対象から外された。
〈略〉
ホッブズの機械論哲学に関するブラントの1928年の単著以降、この状況は改善しはじめてきている。R.H. カーゴン、J.W.N.ワトキンス、アラン・シャピロ、ミリアム・レイク・トマス・スプラゲンなどの研究者によってなされたホッブズの科学についての近年の研究に、わたしたちが依拠していることは、以下であきらかになるだろう。 〈略〉
10
p.40 上段 -
カーゴンは、科学史家たちがホッブズを無視してきた理由の一つは、彼が英雄ボイルに異議を唱え、そしてそれゆえに、ロンドン王立協会から排斥された、という事実にあるのではないか、といっている。イングランドでホッブズが加わった科学論争〔そのすべての論争においてホッブズは決定的に敗北したと、同時代人たちは考えた〕が、歴史家たちが彼を考察対象から除外したことに大きく関係しているということは疑いない。
「ホイッグ的」な歴史〔ホイッグ史観〕の伝統のなかでは、敗北した側はほとんど興味の対象にならないのであり、歴史研究のなかでこの傾向が最も著しいのが古典的な科学史なのである。
<以下、略>
ホイッグ史観
ホイッグ史観(ホイッグしかん、英: Whig historiography, Whig history, whig history、ウィッグ史観とも)とは、歴史を「進歩を担った殊勲者」対「進歩に抵抗した頑迷な人びと」に分け、両陣営の戦いと前者の勝利として歴史を物語的に記述する歴史観である。「成功している我々」や「繁栄している現体制」を歴史的必然、絶対的な運命に導かれるものとして、そこに至る進歩的、進化的、合理的、直線的、連続的な過程として読み替えてしまう、いわば勝利者による正統史観というべきもの。啓蒙主義や社会進化論とも関係が深い。
栄田卓弘によるホイッグ史観の定義
進歩の味方/敵という二項対立で歴史を描く。
敵方の勢力・人物は歴史上有害で、歴史的に無意味な存在である。
現在のために過去を研究する姿勢をとる。
過去は現在の起源として存在を許され、進歩派がそのルーツであり、その敵は生物進化における絶滅種にひとしい。
たとえば、信仰の自由はルターの功績によるもので、我々はルターに感謝すべきであるとする。
歴史家は過去に対する裁判官である。
進歩の敵は「容赦なく断罪され」、進歩をもたらした者は歴史的英雄の地位を勝ち得る。
歴史家は過去を道徳的に判断する権利と責任を持つ。
ホイッグ史観(またはホイッグ史学)は、歴史を抑圧的で蒙昧な過去から「輝かしい現在」への旅として提示する歴史学のアプローチである。 ここで述べられている現在とは、一般的に近代的な自由民主主義と立憲君主制の形態を持つ時代である。元々は、イギリスの立憲君主制の採用とウェストミンスター制度の歴史的発展を称賛するメタナラティブを指す用語であった 。この用語は、イギリス史以外の歴史学分野(例えば科学史)でも広く用いられており、「歴史過程を本質的に目的論的な見方に従属させるあらゆる歴史」を指す。 イギリス史以外の文脈でこの用語を用いる場合は、「whig history」(小文字)が好まれる。
イギリスの歴史家ハーバート・バターフィールドは、短いが影響力のある著書『ホイッグ史観』(1931年)の中で「ホイッグ史観」という用語を使用した。 この用語は、議会の権力を擁護し、国王の権力を擁護するトーリー党に反対したイギリスのホイッグ党に由来する。
バターフィールドがこの用語を使用したのは、イギリスやアメリカのホイッグ党やホイッグ主義に関連してではなく、むしろ「あらゆる進歩を称賛し、プロテスタント主義を自由主義的な自由観と習慣的に結びつける19世紀の歴史学派」を標的にしたものであった。「ホイッグ」や「ホイッグ的」という用語は現在では広く使われており、「あらゆる進歩的な物語を表す普遍的な記述語」となっている。
11
pp.40 下段 -
<前略>
わたしたちが確認しえたかぎり、決定的に重要なテクストにあたり、その内容をなにほどか理解したと確実にいえる歴史家は二人だけである。そのテクストとは、ホッブズの『空気の本性についての自然学的対話』(1661)〔以下、『自然学的対話』〕である。
ホッブズの『自然学的対話』はラテン語の原典から翻訳されることはなかったし、
〈略〉
二人の例外を除けば、歴史家たちは勝利したボイルやその仲間たちと手を組み、ホッブズのテクストについてのボイルの判定を繰り返し、ホッブズが実際に言わねばならなかったことについては沈黙を守ることで満足してきた。ホッブズの科学についてのもっとも詳細な研究を著したブラントでさえ、『自然学的対話』や後期の自然哲学的なテクストの分析に着手しようとはしなかった。ブラントもまた、ホッブズの見解にたいするボイルの評価を受け入れたのだ。
12
p.41 上段
〔ブラント "Hobbes' Mechanical Conception" からの引用〕
〈全文、略〉
13
pp.41 下段 -
ここにはホッブズとボイルの論争を扱うための、そしておそらく否定された知識一般を扱うための、標準的な歴史記述戦略の萌芽が見られる。ここにあるのは、特定の知識の棄却であり、その知識がなぜ棄却されたのかという前提とされている事柄〔それは暗黙のうちに棄却を正当化するように働いている〕であり、否定された知識〔棄却された知識〕と受け入れられた知識の非対称的な処理である。
第一に、否定された知識は、そもそも知識ではなく誤りだとされる。歴史家たちがそれを行なう際のやり方は、受け入れられた知識の肩をもち、勝利した党派が敵対者の立場に対して与えた因果的説明を、歴史家自身の説明として用いるというものである。勝利者たちがこのようにして敵対者の立場を棄却してきたのだから、歴史家たちの棄却も正当化される、というわけだ。(注釈 19)
(注釈 19)
否定された知識への他の社会学的、歴史的アプローチとしては、ロイ・ウォリス "On the Margins of Science" 〔邦訳『排除される知』の各寄稿論文を参照〕
〈以下、歴史家たちそれぞれの棄却の様子を提示。略〉
14
p.42 上段 -
歴史家たちは広く「誤解」という観念とその「誤解」の理由を、ホッブズがなぜ彼がそのような立場をとったかを説明し、またその立場を棄却するために用いてきた。
『ハーバード事例史研究』は、ボイルに反対するホッブズの議論が「部分的にはボイルの見解の誤解にもとづいてた」と述べている。
〈以下、それぞれの歴史家の「誤解」の扱いについて提示。略〉
15
pp.42 下段 -
わたしたちは、「誤解」というカテゴリーとそれに結びついた非対称性は用いずに議論を進める。それゆえ、ここで方法に関して少し述べておこう。
わたしたちの目的は評価ではなく、記述と説明である。それにも関わらず、本書の中核にあるのは、評価に関連する諸問題である。このことはいくつかの仕方で言える。
わたしたちは、実験プログラムに対して「よそ者の視点」をとるように装いながら議論するのだと述べてきた。そうするのは、わたしたちの歴史研究の課題が、実験的営みはなぜ適切だとみなされたのか、またこうした営みはいかにして信頼できる知識をもたらすと考えられたのか、を、探求することにあるからである。
わたしたちは、ホッブズの反実験主義の「内部の者の説明」に近いものを採用することになるだろう。すなわち、わたしたちは、実験プログラムへの反論がもっともらしく、賢明で、合理的に見えるような立場に自らを置きたいのである。ゲルナーに倣っていえば、わたしたちはホッブズの視点に「寛大な解釈」を施そうとしているのだ。
アーネスト・ゲルナー "Cause and Meaning in the Social Sciences"
わたしたちの目的は、ホッブズの肩を持つことではないし、彼の科学的名声を蘇らせることですらない。わたしたちが目指すのは、実験による知識生産の方法を取り巻く、自明性のオーラを打破することであり、これを達成するための有効な手段が、実験主義への反論の「寛大な解釈」なのだ。
わたしたちの望みは、歴史の明確な判断を書き換えることではない。ホッブズの見解はイングランドの自然哲学コミュニティのなかでほとんど支持を得なかったのだ。
それでも、わたしたちが示したいのは、実験プログラムを是とする自然哲学上の共通見解が生みだされるにあたってなされた、過去の一連の判断に関しては、自明なもの、あるいは、不可避なもの、は、なに一つなかったということである。もし、その哲学コミュニティに別の環境が影響していたら、ホッブズの見解は、違った仕方で受け取られただろう。
確かにホッブズの見解が広く信用され信じられることはなかった。しかし、それは、信じることが可能な見解ではあった。確かに彼の見解は正しいとは見なされなかった。しかし、それが、見解自体として、別の評価を不可能にするようなものであったわけではない。
確かにいくつかの点で、ホッブズのボイルに対する批判は、十分な情報にもとづいていなかった。ただそれは、ボイルの立場のなかにも十分な情報にもとづいておらず、いい加減であると見なされる側面があったのと同じことである。
もし、歴史家が、現在の科学的手続きの基準によって、アクターを評価することを望むのであれば、ホッブズとボイルの両者に〔同じように〕、欠点があると気づくだろう。
他方、ボイルの実験主義を論じるにあたっては、実験的知識を生みだし、肯定的に評価する際に、慣習があり、実践的な同意がなされ、多量の労力が費やされた、ということが、根源的な役割を果たしていたと、わたしたちは強調するだろう。
当時の知識人たちは、これらの慣習が適切なものであり、そのような〔実践的な〕同意が必要であり、また実験的な知識生産に費やされる労力には価値があり別のなにかに労力を費やすよりも望ましい、という判断を下した。このような判断に、影響を与えた歴史的状況にはいかなる特徴があったのかを、わたしたちは見極めたい。
16
p.43 下段
「真理」「客観性」「適切な方法」についての問いを避けるどころか、わたしたちは、こうした問題をこそ主題とする。しかし、わたしたちは、それらを科学史の一部と科学哲学の大半に特徴的な仕方とはずいぶん違った仕方で論じる。
「真理」「適切さ」そして「客観性」は、ある種の達成として、歴史的に生みだされたものとして、そしてアクターの判断、およびカテゴリーとして扱われるだろう。それらは、わたしたちの探求の主題なのであって、探求において無反省に用いられるべき道具立てではない。
いかにして、なぜ、ある種の営みと信念が、ある種の営みと信念が、適切で真なるものだと説明されたのか。
17
pp.43 下段 -
科学的方法をめぐる諸問題を評価する際にも、わたしたちは、似たような道筋をたどるつもりである。
わたしたちは、方法論を、知識を生みだす方法に関する一連の形式的な言明としてだけ扱うのではないし、まして、知的営みの決定要因としては扱わない。
確かに、わたしたちは、しばしば、哲学者がいかにふるまうべきかについての明確な言明をとりあげる。だがそうした方法についての言明の分析は必ず、それらの言明が生みだされた特定の環境との関連において、それらの言明をつくりだしている人びとの目的という観点から行われし、その際には、また同時代の科学的営みは、現実としてどのような性質のものであったかが考慮に入れられるだろう。
わたしたちの研究にとって、より重要なのは、現実に実践される活動として方法を理解し、それを考察することである。たとえば、わたしたちは、以下のような問いに、大きな注意を向けることになる。
ある実験的な事実は、どのようにして実際に生みだされるのか。実験の成功あるいは失敗を判定する実践的な基準はなんなのか。どのようにして、またどの程度まで、実験は実際に再現されるのか。そして再現がなされることを可能にするものはなんなのか。実験において事実と理論の間の境界線はいかにして実際に管理されるのか。決定実験は存在するのか。もし存在するのであればどのような根拠にもとづいてそれらは決定的だと説明されるのか。
さらに、わたしたちは、科学的方法を構成するのはなにか、ということについて、また、自然哲学における方法は、文化の他の分野より広い社会における実践的な知的手続きと、どのように関連しているのか、ということについて、通常行われている理解を拡張したい。
わたしたちが、これを成すにあたって用いる方法の一つは、科学的方法と、〔科学的〕方法をめぐる論争を、社会的文脈のなかに置くことである。
18
〔ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」と「生活形式」〕
pp.44 下段 -
〈前略〉
わたしたちが、「社会的文脈」という用語を使う際に、科学的方法を、社会的な組織のあり方が結晶化したものとして、また、科学コミュニティのなかでの社会的なやりとりを律する手段として提示しようとしている。
この目的のために、わたしたちは「言語ゲーム」と「生活形式」という、ウィトゲンシュタインの観念を自由に、非正式な仕方で用いようと思う。わたしたちは科学的方法に接近するにあたり、それを活動パターンに組み入れられたものとして理解する。 ウィトゲンシュタインにとって「『言語ゲーム』という言葉は、ここでは、言語を話すということが、一つの活動ないし生活形式の一部であることを、はっきりさせるのでなくてはならない」。それと同じように、わたしたちは科学的方法をめぐる論争を、ものごとを成すための、また人びとを実践的な目的に向けて組織化するための、相異なるやり方をめぐる論争として扱うつもりだ。(注釈 32)
(注釈 32)
フーコーの「言説」にはウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」との数多くの興味深い類似点があるが、わたしたちはウィトゲンシュタインの方を好む。なぜなら、彼は、実践的な活動がなによりも重要だと強調しているからだ。フーコーの「言説」という術語の用法については、フーコー『知の考古学』第1章、第2章を参照 わたしたちは、知識の問題に対する解決策は、社会秩序の問題に対する実践的解決策の一部を成しており、また社会秩序の問題に対する相異なる実践的解決策のうちには、知識の問題に対する対照的な実践的解決策が含まれているのだと示そう。
実にこのことにこそ、ホッブズとボイルの論争はかかっていた。
19
〔この本の方法論的な依拠について:著述家やその著作について〕
p.45 上段
本書が科学知識の社会学に属する作品であることは容易に気がつくだろう。知識の社会学とは果たして可能なのかどうかを議論することおできるし、実際に知識の社会学を行なうという仕事を進めることもできる。後者の選択肢を、わたしたちは選んだ。
そのため、わたしたちは、知識社会学における理論的な文献にあまり言及していない。そのような文献がわれわれのプロジェクトに一貫して着想を与え続けてきた重要なものであるにも関わらずである。それらの文献に、わたしたちが、いかに負っているかは、わたしたちが実践する歴史研究の手続きが示してくれるに違いない。わたしたちの方法論的な依拠は、他の多くの方向に広がっており、それらはあまりに深く広範囲に渡るので、十分に謝意を示すことができないほどである。
ホッブズ研究者の中ではとりわけ、自然哲学と政治哲学の関係を強調していることに関して J.W.N.ワトキンスに多くを負っている〔ただし、実験に対するホッブズの態度という問題については、わたしたちはワトキンスと意見を異にしている〕。 また、クェンティン・スキナーにもその歴史的記述法のさまざまな点について負うところ大である〔ただし、ホッブズと王立協会との関係について、わたしたちは彼と意見を異にしている〕。 科学史家のなかでは、実験的営みが実際にはどのような性質のものであったかに関する近年の研究のうちに、わたしたちは重要な着眼源を見出してきた。わたしたちは特に、ロバート・フランクとジョン・ハイルブロンの作品を念頭に置いている。 20
〔二つの経験的歴史研究について:ジョン・キーガン〕
pp.45 下段 -
以上の依拠は明白かつ明瞭である。そのため、、わたしたちの研究計画との繋がりはそれほど明白ではないものの、本書で採用されているのと同様の方向性を示している二つの経験的歴史研究に言及することには意味があるかもしれない。
「私は戦争に参加したことはない。近くにいたことも、遠くから戦いの音を聞いたことも、戦いのあとを見たことさえない。 …… 私は、もちろん、戦争について読み、語り、講義をおこなってきた。 …… しかし私は戦争に参加したことはない。そして私は次第に強く確信するようになった。私は戦争がどんなものなのかほとんど知らないのだと。」( John Keegan "The Face of Battle" 1976)
山梨県立図書館 蔵書
これはキーガンがサンドハーストでの教師として、また多くの軍事史家たちのなかになって気づいた無知の率直な自認である。この気づきなしには、キーガンは、彼が最終的に生みだした鮮明で生き生きとした歴史を書くことはできなかっただろう。
本書のための研究を始めるにあたって、わたしたちは、自らがキーガンと似た位置にいることに気づいた。わたしたちは実験について多くを読んできた。わたしたちは学生としていくらかの実験を行ないさえしてきた。しかしながら、わたしたちは、実験とはなんであったのか、そしてそれが、どのようにして科学的知識を生みだしていたのかについて、十分知っているとは感じていなかったのである。
キーガンの戦争についての説明との類似はさらにある。キーガンは、フォン・モルトケ伯によって形成された支配的な種類の軍事史がどのようなものであるのかを見極め、それを「将官団の歴史」と呼んでいる。
将官団の歴史において支配的な重要性をもつのは将官たちの役割、彼らの戦略的計画、彼らの合理的な意思決定、そして彼らが戦闘の究極的な進み方に与える影響である。将官団の歴史から組織的に除外されているものは、実際の戦闘の偶然性や混乱、兵士の小部隊の役割、実地での戦争と将官たちの計画との関係である。
将官団の歴史に、科学史と科学哲学における「合理的再構成主義者」的な傾向との家族的類似性を見出すのは突飛な発想ではないだろう。科学史の「フォン・モルトケたち」は、実際の科学的営みを取り扱うことを避ける、という似通った傾向を示し、乱雑な偶然性よりも理想化と単純化を好み、慣習を同定することよりも本質について語ることを好み、そして実際に科学研究に従事した人びとによってなされた過去の作業よりも、自然についての疑い得ない事実や科学的方法の超越的な基準に言及することを好んできたのである。(注釈 35)
(注釈 35)
科学史家たちが示す、実験的営みの研究に反対する根深い偏見は、何人かの著者によって指摘されている。
イアン・ハッキング『表現と介入』第9章 p.295
「自然科学の歴史は今日ではほとんどいつでも理論の歴史として書かれている。科学哲学はあまりにも理論の哲学となってしまったせいで、前理論的観察や実験の存在さえもが否定されてきた」
キーガンが軍事史にもたらしたものの、ほんの一部であったとしても、わたしたちがそれを実験の歴史につけ加えたと考えるのは、自惚れが過ぎるというものだろう。だが、キーガンと同じ種類の歴史記述を行なう、ということは幸せなことである。
21
〔二つの経験的歴史研究について:スヴェトラーナ・アルパース〕
pp.46 下段 -
別の予期していなかったモデルは、わたしたち自信の研究対象に経験的歴史研究として着目している点でより近い。それはスヴェトラーナ・アルパース『描写の芸術』である。
甲府市立図書館 蔵書
わたしたちにとって残念なことに、アルパースの書物は、わたしたち自身の作業が実質的に完了した頃に出版された。そのため、わたしたちは、彼女の研究を満足がいくほど十分に吟味し本書に組み込むことができなかった。それでも『描写の芸術』とわたしたちのプロジェクトとの類似は非常に重要であり、その点を簡潔に指摘しておきたい。
アルパースは17世紀におけるオランダの描写的芸術に取り組んでいる。とくに彼女は、オランダでの描写的な絵画を作成する際に用いられた慣習を理解しようとしている。彼女は次のように書いている。
「世界を発見することと職人的手仕事をもって世界に形象をあたえることが、結局ひとつに収斂するものであると、17世紀には考えられていた」(『描写の芸術』 p.26) (注釈 36)
(注釈 36)
社会学に傾斜した科学史家に有用な道具立てを提供してくれる芸術史の同様な試みとしてマイケル・バクサンドール『ルネサンス絵画の社会史』がある
山梨大学附属図書館 本館 蔵書
彼女は、そのような前提が文化のはるかに隔たった諸領域 —— 普遍言語の計画、科学における実験プログラム、そして絵画 —— を通じて行き渡っており、またそれらの前提が、オランダとイングランドにおいて、特に際立っていたことを示している。オランダの描写的な絵画と、イングランドの経験主義的な科学は、いずれも知識の知覚的な比喩を含んでいるのだ。
「私は、知覚的な比喩を、次のような文化を意味する言葉として用いている。すなわち、わたしたちは自らが知っている事柄を、精神が鏡のように自然を映すことを通して知るのだと想定する文化である」(『描写の文化』 p.96) (注釈 37)
(注釈 37)
アルパースは知識についての鏡像理論の発展に関するローティの重要な概説に言及している
山梨県立図書館 蔵書
ある知識の基礎は、目撃された自然であるべきであった。それゆえ画家の工芸技術、そして実験主義者の技芸とは、直接的に見る、という行為を信頼できる仕方で模倣した表象を作成することであった。
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p.47 上段
アルパースの説明には、わたしたちにとって、特に興味深い二つの点がある。
一つは、彼女が北方の〔そして特にオランダの〕絵画についての考え方と、イタリアの絵画な特徴的な考え方を対照的に扱っていることである。
イタリアにおいて絵画は、第一義的には、テクストへの注釈として認識されていた。他方、北方では、絵画のテクスト的な意味は省略され、自然の実在を直接視覚的に把握することが好まれた。
アルパースは、描写についての異なった理論が知識についての異なった考え方を示していると結論づける。テクストか目かという違いである。
「テクストか目か」という対立軸が、ホッブズとボイルの論争、および、論争の基礎にあった知識の理論をめぐる争いの間にもあった、と、考えるのはあまりに正確性を欠く。にも関わらず、実験的方法の妥当性をめぐる争いの中に、極めて似通った論争が見られるのである。それは、知識を生みだして根拠づける基礎としての、目と目撃の信頼性をめぐる論争である。
第二に、アルパースは写実的な図像の本性に対し、わたしたちが「よそ者の視点」と名付けた視点をとっている。それらの図像が実在を「反映すること」は、慣習や工芸技術の産物として扱われている。
「実物そっくりに見えるように、絵は入念に制作されねばならない」。写実的な表象を生みだす工芸技術は、科学において写実的な言明を行なうために必要とされたロバート・フックの慣習を受け入れることではじめて可能になる。すなわち「誠実な手」と「 忠実な眼」である。(『描写の芸術』 pp.133-134) (注釈 38) (注釈 38)
ロバート・フック『ミクログラフィア』 p.10 を引用している
ロバート・フック『ミクログラフィア』
知識のためのこの慣習を受け入れることで、また表象の工芸技術を実行することで、表象を作成することの人工性は消え去り、それらの表象は実在の鏡としての地位を獲得する。よって、わたしたちのプロジェクトは、アルパースと同じものなのである。慣習と工芸技術を白日の下に晒すのだ。
〔この本の構成について〕
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〔第2章 「見ることと信じること —— 空気学的な事実の実験による生成」〕
pp.47 下段 -
次章〔第2章〕では、ボイルが実験哲学のために提案した生活形式を考察する。
どんな技術的、文章的、社会的実践によって、実験的な事実が生みだされ、妥当なものとされ、同意の基礎へと仕立て上げられるべきと考えられていたかを見極める。
わたしたちが、とりわけ大きな注意を払うのは、空気ポンプの稼働と、この装置を用いた実験がいかにして異論を寄せ付けないとされる知識を生みだし得たか、である。
わたしたちは、ボイルが実験主義者たちに推奨した社会的、言語的営みを論じる。これらの営みが事実をつくりだし、そうやってつくりだされた事実を、不和や争いを生みだすとされた種類の知識から守るにあたって、いかに重要であったかを示そう。
ここでわたしたちがなすべきことは、実験的知識を生みだすべきとされた慣習を特定することである。
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〔第3章 「二重に見ること —— 1660年以前におけるホッブズの充満論の政治学」〕
p.48 上段
第3章では、ボイルの『新実験』が1660年に出版される以前の、ホッブズの自然哲学の状態と対象を論じる。
ここでのわたしたちの主要な目的は、『リヴァイアサン』(1651)を〔政治哲学ではなく〕自然哲学の書物として、そして認識論の書物として読むことである。
政治哲学の論考として『リヴァイアサン』は、国家における秩序を保障する営み、を示すように書かれた。その秩序は、内戦のあいだ「自分たちが政治的な権力にあずかっているのだ」と、認められてもいないのに強弁する聖職者、知識人らによって脅かされる恐れがあった。
このような権力の略奪者が用いた主要な道具立ては、ホッブズによれば、誤った存在論と誤った認識論であった。
ホッブズは、非物体的な実体と非物質的な霊を想定する存在論の不条理を示そうとした。それゆえ、彼は充満論的な存在論を構築したのであり、そしてその過程で、唯物論的な知識の理論を打ち立てたのである。
その理論において、知識の基礎は原因の観念であり、その原因とは物質、及び運動なのであった。
哲学の名に値する営為は、本来的に原因に関わるものであった。それは幾何学と政治哲学の論証的営為を範としていた。決定的に重要であったのは、そのような営為が論証的な性格によって同意を生みだすということである。同意は完全なものであり、それは強制されるべきものだった。
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〔第4章 「実験にまつわる困難 —— ホッブズ対ボイル」〕
pp.48 下段 -
王政復古の年にボイルの実験プログラムが公になったとき、ホッブズの哲学は『リヴァイアサン』と『物体論』(1655)の両者においてすでに定まっていた。彼はすぐにボイルの急進的な提言に応答する。
ホッブズの『自然学的対話』の分析が第4章の枠組みをなしている。このテクストにおいてホッブズはいくつかの根拠にもとづいてボイルの実験主義を破壊しようと試みた。
彼は、ボイルの空気ポンプが物理的な完全性を欠いており〔漏れが存在する〕、それゆえそのポンプがつくるとされる事実なるものは実のところまったく事実などではないと論じた。このポンプの漏れを、ボイルの発見に別の自然学的説明をあたえるために用いた。
ポンプは、操作によって生みだされた真空であるどころか、つねに大気に由来する空気の断片で充満している。ポンプの充満論的説明は、ボイルの説明より優れているのだった。そしてホッブズは、ボイルを真空論者とみなして攻撃した。ボイルは、真空論者と充満論者が闘わせてきた論争に関して、不可知論を公言していたにも関わらずである。
不可知論は神の存在に関わる
「哲学においては、不可知論はしばしば、神の存在は未知である、あるいは知り得ないという一般的な主張として扱われる」
認識論的に、より重要なのは、ホッブズが以下の諸点に対して行った攻撃である。
すなわち、事実をつくりだすこと、そのような事実を合意された知識の基礎にすること、そして、事実をそれを説明する自然学的原因からボイルが分離したこと、に対しての攻撃である
事実をつくりだすこと
〔そのような〕事実を、合意された知識の基礎にすること
〔そして〕事実を、それを説明する自然学的原因から分離したこと
これらの攻撃は結局、ボイルの実験プログラムがどのようなものであれ、それは哲学ではないという主張に帰着した。哲学は原因に関わる営為であり、そのため、ボイルが目指したような部分的な同意ではなく、全体的で後戻りできない同意を保証するのだ。ホッブズの激しい攻撃は、実験的な事実がもつ慣習性を突き止めていたのである。
実験的な事実がもつ慣習性
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〔第5章 「ボイルの敵対者たち —— 擁護された実験」〕
p.49 上段
第5章では、ボイルが1660年代にホッブズ、および他の二人の敵対者〔イエズス会士のフランシスクス・リヌス、ケンブリッジ・プラトン主義者のヘンリー・モア〕に対してどのように応答したかを示す。 ボイルの応答の相異なる性質、および流儀を検討することで、わたしたちはボイルがなにを最も熱心に守ろうとしたかを特定する。
それは、正当な哲学的知識を生みだす手段としての空気ポンプと、実験コミュニティの道徳的な生活を律する規則の完全性であった。ボイルはホッブズを、哲学的知識を構築する全く異なる方法を提示している人物というより、むしろ、失敗した実験主義者として扱った。
彼は三人の敵対者によって与えられた機会の全てを、次のことを示すために用いた。すなわち、いかにして実験的営為そのものを破壊することなしに、実験をめぐる論争がなされ得るのかということである。それは実質的には、実験的知識がもつ事実という基礎を強化するために、論争がどのように用いられ得るのか、ということであった。
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〔第6章 「再現・複製とその困難 —— 1660年代の空気ポンプ」〕
p.49上段 -
第2章、第4章、第5章で論じられたのは、実験プログラムにおける空気ポンプの中心的な役割と、批判者たちがいかにしてその動作の不完全性を、実験そのものを攻撃するために用いたのかということである。
第6章では、二つのことをしたい。
第一に、わたしたちは、物的な事物としてのポンプそのものが、1660年代にどのように進化を遂げたのかを検討する。
その際、その変化には初期の、とりわけホッブズによってなされた批判に対する応答が埋め込まれていたと論じる。わたしたちは、その10年間に成功裏に組み立てられた少数のポンプについての情報を明らかにし、次のことを示す。
それは、ボイルが〔ポンプの組み立て方や動かし方を詳細に〕報告したにも関わらず、オリジナルのポンプを見ることなしに、ポンプを組み立て動かすことができた者は誰もいなかったということである。このことは歴史家たちがこれまで認識していたよりもいっそう、興味深い、再現の問題を提起する。
再現〔の問題〕は、第二の課題にとっても中心的である。
第2章でわたしたちは、事実の構築が目撃者の増加を含んでいたこと、またボイルが、自らの実験を反復すべく努力していたことを論じた。しかし『新実験』が現れるとすぐ他の哲学者、すなわち、オランダのクリスティアン・ホイヘンスが、ボイルの最も重要な説明上の道具立ての一つを無効化するかに思われる発見をする。いわゆる水の変則的な停止現象である。
わたしたちは、この重要な変則例が、どのように扱われたのかを検討し、次のように結論づける。すなわち、空気ポンプが適切に動作しているかどうかを判断する基準は、変則的な停止のような現象が存在しうるかどうかについて、各論者が予めとっていた立場によって変わるものだったのだ。
わたしたちは、変則例への応答を、実験コミュニティ内部での致命的な不和からコミュニティ自体を守るために用いられた実験的生活形式と慣習の現れとして分析する。
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〔第7章 「自然哲学と王政復古 —— 論争のなかでの利害関心」〕
pp.49 下段 -
ボイルの実験主義とホッブズの論証的方法は、いずれも、秩序の問題に対する解決策として提示されていた。
第7章でわたしたちは、この問題に対する解決策を、社会における同意と秩序の本性、および基礎を巡って広く闘わされた王政復古期の論争のなかに位置づけようと試みる。
この論争は、秩序を生み出し守るためのさまざまなプログラムが、評価される文脈を与えていた。わたしたちはここで、自然哲学の歴史と政治思想、および行為の歴史が、いかに交錯するものであるのかを示す。
〔二つの解決策:ボイルとホッブズ〕
一つの解決策〔ボイルのもの〕は、自然哲学の区分を矯正し、また自然哲学と政治哲学との間にあった物議を醸す結びつきを解くことによって、自然哲学の領域に秩序を与えるというものである。このように修復することによって、自然哲学者たちのコミュニティは、王政復古期の文化のなかでのその正当性を確立し、社会における秩序とあるべき宗教を保証することに、いっそう効果的に貢献することができたのである。
自然哲学の区分を矯正し、また自然哲学と政治哲学との間にあった物議を醸す結びつきを解くことによって、自然哲学の領域に秩序を与える
他の解決策〔ホッブズのもの〕は、自然哲学、人間哲学、社会哲学のあいだに、いかなる境界も認めず、その哲学のなかでは、いかなる意見の不一致も認めないというような、論証的哲学を確立することによってのみ、秩序は保証され得るのだ、ということを要請した。
自然哲学、人間哲学、社会哲学のあいだに、いかなる境界も認めず、その哲学のなかでは、いかなる意見の不一致も認めないというような、論証的哲学を確立する
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〔第8章「科学の政体 —— 結論」〕
pp.50 上段
結論となる章〔第8章〕では、本研究の科学史と政治史に対する、いくつかの含意を引き出す。
知識を生みだすという問題は、政治における問題であるということ、
また逆に、政治的な秩序の問題は常に、知識の問題に対する解決策を内包しているのだということを論じる。
〈了〉